映画監督に会うのが苦手である。畏敬の対象である監督に何を言っていいか分からない。気の効いたことを言って、相手に自分の存在を認めてもらいたいというスケベ心を自覚しているので、気の効いたことを言えるはずもない自分に向きあうのも嫌だ。できれば会わずに済ませたいと思ってしまう。今年、巨匠マルコ・ベロッキオを紹介されたときは本気で逃げようかと思ったし、生きている監督の中で最も好きかもしれないアルノー・デプレシャン監督に3月に会ったときは、何も言えない自分を心底呪った。
監督の懐に飛び込んで、付き合いを深め、そして新作を自分のところの映画祭に持ってきてもらうように仕向けるのが映画祭ディレクターの仕事だとしたら、僕はまったくその任に適していないことになる。映画人たるもの、朝まで飲んでナンボ、という空気がある中で、僕は飲みに行くのは大好きだけど、1次会が終わる頃には早く帰って寝たいなと思ってしまう(か、実際にその場で寝てしまう)。
そんな僕が最も深い付き合いをしたのが佐藤真監督で、一緒に飲みに行くどころか、映画作りを手伝うことにまでなってしまった。映画祭業務と並行して映画製作に参加したけれど、映画監督に対する必要以上の距離感を払拭してくれたのは、佐藤監督だったのだと思う。来週の9月4日(土)は、佐藤さんの3回目の命日である。
さて、松江哲明である。現在、最も刺激的な映画を作る監督である。僕よりずっと年少である。何回も、お会いはしている。でも、同じ飲みの席に会したことはあるものの、どっぷり語りあったことはない。連絡をすれば、多分サシで会ってくれるだろうと思うし、友達づきあいを希望したら実現の可能性はゼロではないかもしれない。でも、あの人懐っこい笑顔の下に、極めて優秀な頭脳と溢れる才能があることを知っているので、僕はやはり言葉を失うと思う。いまはこのくらいの片想いでちょうどいい。
そんな松江監督が、9月に本を上梓するという。しかも、「ヤタベさん、ゲラを読んでくれませんか?」と本人からメールが届いた。僕が? ゲラ? なんで? と自問しているうちに(もちろん快諾したけど)「セルフ・ドキュメンタリー 映画監督・松江哲明ができるまで」と題された本のゲラが出版社から送られてきた。
今日の日曜日、早朝からDVDと格闘し、そして資料作りに一日を費やすことを決めていた。しかし、朝、不覚にもゲラに手を伸ばした瞬間、一日の予定が全部ふっとんだ。映画とドキュメンタリーに関する思考に頭が完全に支配され、客観的な映画の仕事を遂行することは不可能になってしまった。
本書と並行して、佐藤真の著による「ドキュメンタリーの修辞学」に収められている「私的ドキュメンタリー私論」が必読とされるが、90年代以降に主流となった「セルフ・ドキュメンタリー」の実践者としての松江監督の考え方があますところなく述べられている本書は、最も新しく重要な現代ドキュメンタリー論として映画界に屹立するだろう。佐藤亡きいま、この意義は計り知れないほど大きい。
セルフ・ドキュメンタリーとは、簡単に言えば家族や知人といった身近な対象を扱う作品のことであり、三里塚闘争や水俣病に代表される政治や社会のあり方に迫る作品との対立概念的に使われることが多い。佐藤はセルフ・ドキュメンタリーが戦略性に欠けることがある点を危惧しており、身近なテーマを描くことは1度は面白いが、2度目が続かないという「一発屋」に終わる危険性を若い監督たちの中に見出していた。
しかし、これは佐藤の著書にも、今回の松江の本にも書かれてはいないが、最初の作品を超えられない恐怖というのは、佐藤真本人が最も感じていたことである。3年をかけて完成させた処女作『阿賀に生きる』を超える作品を撮ることはできないのではないか、という葛藤は常に佐藤監督の中にあった。
それはセルフ・ドキュメンタリーを巡る議論とは直接的に関係しない部分も多いので詳しくは入り込まないけれど、ともかく若い監督達に対する佐藤さんのまなざしは常に暖かく、松江さんのことも大好きだったみたいだし、松江さんも批判されながらもきっちりと答えを出し、佐藤さんを尊敬している様子が本書からも伺える。
確かに、佐藤の危惧を読むまでもなく、身近な存在にキャメラを向けることで高評価に包まれたキャリアをスタートさせた監督達の多くが、2本目を撮れないでいる。
そんな中、10年前に「セルフ・ドュメンタリー」であるデビュー作『あんにょんキムチ』で喝采を浴びて以来、コンスタントに作品を発表し続け、童貞、林由美香、前野健太と吉祥寺、という武器を手にして軽々と処女作を打ち破っていく松江哲明は、日本映画史上に前例の無い画期的な存在になりつつある。
ともかく、デビュー作の呪縛や、身近なテーマの限界を、AVの現場で取得した方法論を昇華させる形で超えていくという過程があまりにも画期的であり、そういう意味で松江はビデオ/デジタル/ノンリニア時代の寵児であり、他に類を見出せない存在であることは間違いない(もっとも、「呪縛」とか「限界」という単語が松江の筆から発せられることはなく、これらは読んでいるこちらの邪推であり、本書のトーンは極めて明快で、爽やかですらある)。
松江監督のこの10年間が記された本書、「極めてとてつもなく面白い」としか言えない。こんなこと、本人に言えるだろうか? もう少し、批評めいたことを言えた方が信頼されるのではないか? とか、色々考えてしまうと、やはり本人には会いづらい。メールで感想を送るべきだろうけど、どうしよう。ともかく、興奮した日曜の午後、冷静になる前にブログだけはアップしてしまおう。ずるいかな。
あとは、来週、佐藤さんの墓前に本書を供えてこようか。佐藤さんに「あんにょん由美香」と「ライブテープ」、見せたかったなあ。
しかし、それにしても、ちょっとこの世代はヤバイのではないか。
山下敦弘&近藤龍人(76年生)、松江哲明(77年)、横浜聡子(78年)、廣末哲万(78年)、入江悠(79年)…。70年代後半に生まれた世代が、少しずつ集まり始め、1つの動きを作りだしていくような気がしてならない。日本映画界を刷新するのは、彼らではないか? この世代の力を集結させられないものか? 誰かきちんと評価してくれないか? ネオ・リアリズモでも、ヌーヴェル・ヴァーグでも、ドグマ95でも、集団的な映画のうねりに表札が立つことで世界的な訴求力が高まる。日本の黄金の50年代は、総括する呼称がなかったために世界映画史における認知度が本来あるべき高みに達していない、と書いていたのは蓮實重彦だったか。
僕にできることはあるだろうか? 少なくとも、映画監督に会うのが苦手だと言っている場合ではなさそうだ。