実家から僕の私物がダンボールにまとめて送られてきた。
映画のパンフレットや雑誌のバックナンバー、書籍、LP、レーザーディスク…。
本当は適当に処分してほしかったのだが、大切な物もあるだろうからと母が気を利かして送ってくれたのだ。
その中に、とりわけ懐かしい本が紛れていた。
淀川長治著「私の映画の部屋」全三刊。
あ〜ぁ、懐かしい!
30年も前の本だ。
当時、毎週土曜日に放送されていた淀川長治さんの番組「ラジオ名画劇場」を、厳選してまとめたのがこの本だった。このラジオ番組が放送されていた頃(=本が出版された頃)の僕は、ひどい喘息に悩まされていて、1年の3分の1は自宅か病室で発作と闘っていた。発作が始まると、もちろん映画など観に行く余裕も無い。背中が硬直して、肺のあたりがピーピーと音を立てはじめ、次第に気管が硬直してくる。本当に死んでしまいたくなるくらい辛い。辛さを忘れるために、本を読んだりテレビ画面を凝視するなどして気を紛らわす。でも不思議なことに、この「私の映画の部屋」を読み始めると、硬直していた気管が心なしか少しばかり拡張したように感じ、すっと痰が落ちていく。
この時期、僕はこの3冊の本を繰り返し読んでいた。ロジカルに映画を論じるのが映画評論のあり方だと思っていたのに、淀川さんのは決してそうではなかった。この本の中でも“感覚”という言葉を多用しているが、極めて感覚的な批評をする人だった。淀川さんは、映画の物語を語りながら、映画を観る“感覚”や“感性”について論じているのだ。それは高校生の僕には、とても刺激的で愉しい方法論だった。
例えば、イングマール・ベルイマンの『処女の泉』について語っている章では、「みなさんは、『処女の泉』ご覧になりましたか。ベルイマンみたいな監督の映画は、ファーストシーンから、じっくり観なくちゃいけませんね」で始まり、「この映画の最初は真っ暗な場面ですね。なんだろうと思ってますと、なにかかまどの火を吹くような感じがあるんですねぇ」と続く。この感覚的な表現が淀川さんの真骨頂だったと思う。
最近は映画評論家といわれる人は少なくなって、ミーハー至上主義のような映画ライターが幅を利かせている。しかし彼らには、淀川さんのような影響力は持ち合わせていない。哀しいことだけど、映画に限らず、メディアはカルチュアに対して悦楽的で、その本質を伝える義務を怠っているばかりか、そのことに気付いてすらいないようだ。彼らは文化を伝達することに留意しないし、それを伝える立場にある者には、決定的に品格が欠落している。そうだ、淀川さんには品格が備わっていたのだ!
あぁ、嘆かわしい!!!
ながながと愚痴っぽいことを書き連ねてしまった…。
ところで、話は変わりますが、この映画業界人ブログに一昨年の夏から参加させてもらって、早1年と7か月が経ちましたが、本日をもってお別れとなりました。なるべく毎日更新を目指していたものの、仕事や私生活の影響もあったりして、なかなか皆勤賞という訳には行きませんでした。でもふり返ってみると、こうやって日々の出来事を記録して行くというのは、良いことですね、“ふり返ってみると”ですけど。ほかの執筆者に比べ、コメントやトラックバックが少なくて、浜田氏には“本当に僕のを読んでいる人、いんの?”なんて八つ当たりした日もありましたが、もうこの入力画面を訪ねることも無くなるのかぁ、と思うと少し淋しい気もします。少数でしょうけれど、ここに訪れて読んでくれていたみなさんには感謝します。またどこかで僕の駄文を読んでもらえる日が来ることを願いつつ……
さいなら、
さいなら、
さ・よ・お・な・ら・!
コメント
Posted by Anonymous at 2008年03月31日 20:02
Posted by 沖田敦 at 2008年04月03日 17:15
Posted by Anonymous at 2008年04月06日 11:21
Posted by 沖田敦 at 2008年04月08日 17:02
Posted by Ykiko at 2008年04月23日 23:22
Posted by abe at 2008年04月28日 22:03
コメント投稿はこちらから
Ads by Overture